エタイさんの発達構造は複雑である。ワーキングメモリと言語理解/知覚推理の逆転構造やテンプレートの概念等を用いて説明してきたがなかなか分かりやすくはならない。このため、もっと抽象的に簡略化した理論が必要になった。そこで棚卸しに伴って仮説として立ち上がってきたのが「ハコ理論」である。
この理論を使えば、私についてかなりの問題行動や生存戦略についての説明が可能になると期待できる。
「ハコ」とは文字通り箱のことである。このハコの中には情報が格納されるが、ハコ自体も入力された情報で出来ている。つまり私の脳は入力と処理の二段階が発生するわけだが、一般的な脳構造よりも一段多いので負荷がかかりやすく、それゆえに一般社会との様々な軋轢が生じやすい。
これを説明するため、一般人側(健常者や一般的な発達障害者)の構造を比較することになるが、この補助的な理論として「積み木理論」を必要とした。両者の比較により説明をわかりやすくすることはこれまでと同様である。
まず、エタイさんの構造(ハコモデル)と一般人の構造(積み木モデル)の単純な比較を以下の図に示す。
両者は根本的に構造が違うことがわかる。一般人(健常者や一般的な発達障害者)は入力された意味が積み木となって一つずつ入力され、それを積み上げていって総合的な理解が形成される。一方で私は入力された情報が巨大なハコとしてまず形成され、後から意味を格納して意味を組み立てていくことになる。
私に情報が入力された段階では先にハコが存在するため、そこに格納される意味は必然的にハコの形状に合ったものが選ばれることになる。「ハコに合う=私にとって整合性が取れる」である。よって、客観的な意味に合致するかどうかは二の次になる。
格納の綺麗さ、すなわち整合性がとれるかどうかが最優先されるため、意味の後付けされたハコを言動として出力した際に不適応を起こすことになりやすい。これが問題行動や生存戦略である。
私のハコモデルはそれ自体が問題なのではなく、積み木モデルと噛み合わなかったことによって軋轢が起こっている。情報の処理方式が元々違うにも関わらず、一般社会と同じ方式の情報処理への適応をさせられてきてしまったために不適応を起こしたのである。
以下は、私が不適応を起こしている場合の詳細図である。
まずこのハコとは何かというと、入力された情報そのものというよりはその情報の額面であり、枠組み(フレーム)である。額面以上でも以下でもないので意味が装填されておらず、中身を伴っていない。
ところが客観的な言葉の意味は大抵の場合、人間として社会に受容されている暗黙の前提が含まれていることが少なくない。例えば「恩」や「感謝」などは他者から人間として大切にされたことに対する反応であることが暗黙の前提として意味に含まれているため、誰に教えられた訳でもなくほとんどの人が常識としてこの概念を持っている。しかし私は小学校6年間も学年の女子全員=世界観から人間として存在否定されてきたのでこの前提が実装されていない。よって、恩や感謝の話を聞いても額面だけが「ハコだけ」の情報として入ってきて、そこに感情が起こらない。
そして、意味未確定という額面情報がハコの中に強制的に入ってくる。このため言動が出力されずにフリーズし、さらに意味づけが後から発生する仕様により、言語化や行動化にタイムラグが発生する。しかしそのどれもが因果律を伴わない(整合性が取れない)ため、このままでは出力できない。そこで反射的に整合性の通る行動が選ばれてハコに入力される。
整合性の通る意味は、生育歴で積み上げられたものがモジュール化されているので一から構築する必要がない。これがテンプレート(統合的意味群)である。このテンプレートがハコに入る準備がスタンバイされていて、何かの出来事によりハコに入って整合性OK判定が出ると言動として出力される。これが不適応行動やアディクションになることがしばしばある。
ハコモデルは、発達障害の特性で述べたようにワーキングメモリが言語理解/知覚推理を押しのけて前面に出ている状態が幼少期に固定されたことにより、入力された生データに対して意味づけが後から行われる発達構造を抽象化したものである。しかし、処理順序が逆転したというだけでは私の構造と一般社会の相性については説明できない。
最も致命的なのは、幼少期に人間扱いされなかったことで「人として最低限」の前提=感覚が実装されなかったことである。これを以下の図に示す。
幼少期の脳は、外部からの刺激に対してまだ善悪などを区別できないので、ワーキングメモリにストックされた情報に対して他者からの追加情報を学習することで自分にとっての意味が形成される。このとき、他者との関係を通して「世界は安全か」を学習するかしないかの分岐が発生する。
特定の他者と良好な関係を築ければ「世界は安全=人間として存在して良い」前提が形成される。そしてこれは前提なので新規入力された情報に対してデータを参照する必要がない。よって、通常は人として持っているべきものをデフォで保持して適応行動が出力される。
しかしエタイさんはこうはならなかった。幼少期に学年女子全員という「不特定多数=環境」から存在否定されたため、「この世界が安全かどうかが未確定=人間として存在して良いかどうかが不明」状態に陥る。「自分が人間である前提」(予め意味が確定している)が破綻しているため、生きるためには入力された情報から「自分が人間であるとの結論」(後から意味づけを確定する)を出すしかなくなり、「人として最低限」を感覚として持つことができず、理屈を構築せざるを得なくなる。
私自身が人間であることが仮の話にならざるを得ないため、一般社会に適応(擬態)するためには世界に対して存在許可申請を出すしかなくなる。対して一般社会の構成員である他者は自分が存在していることが「前提」として保持されているため、私が許可申請をする意味がわからず話が噛み合わなくなる。このため私自身には整合性の取れる言動がしばしば不適応となる。
これをそれぞれ積み木理論とハコ理論に落とし込むなら、積み木は自分の存在する意味であり、ハコは自分の存在そのもの(額面)である。通常(図の左側)は存在する意味は既にここに「ある」状態であり脳内ではこれを組み立てるだけで人としての適応行動が出力される。対して私(図の右側)は、入力情報により私の存在そのものは額面(ハコ)として認識できるが、自分が人間である前提(中身)が存在してないので実体がない。そこで後から人間であるという「意味の積み木」をハコに入れることになる。
そしてこの積み木は形が創作されるのではなくハコの大きさに合うように収納される(整合性が取られる)ので、出力結果で前者とは意味の食い違いが起きる。行動の場合は不適応が起こる。「前提」と「結論」は一般的に対義語であるが、一般人と私では処理順が前か後かで対義的な意味が成立しているため、私の理解が一般には逆順に見え、私から見れば一般の理解が本末転倒に見えるのである。
ハコ理論の本質は、自分が人間であることが「前提か結論か」の違いで結論側に固定されていることにある。よって、自分が人間であることを仮説立てることが生き方の土台になるが、自分が人間であることが確定しないことほど恐ろしいものはないため、従来の生き方として存在許可を得なければならなかった。
しかし「人として最低限」そのものは保持しないと社会生活を営むことはできない。問題は「人として最低限」を存在許可申請によって結論から前提に変更することを最終目標としていたことにある。脳の処理順(設計思想)という変えられないものを変えようとしていたため人生が思い通りに行かなくなったのである。
変えられるのは「人として最低限」が構築できるかどうかという認識である。順番こそ変えられないが後からでも構築は可能であると受け入れることは可能であるため、私が人間であることを結論づけることを認識するのが新しい生き方になるだろう。これがハコ理論の使い方である。