エタイさんの対人関係の特徴の最たるものは距離感が遠すぎることにある。これもやはり女性不信に端を発するものであるが、重要なのは原体験が「個人」ではなく「不特定多数」であるゆえに不信感の範囲が広すぎることとレンジが深すぎることが問題であり、一般的なACとは似て非なる症状が現れている。よって対処方法が根本から違っていて、現実の社会に適応(擬態)するのが困難となっている。
これらの出来事は、他者(その入口として女性)への接近そのものが「危険」と神経系が学習した決定的要素である。これは一般的なAC等が「親密さ」を恐れることとは違い、「親密さ」の入口に立つことすら危険であると学習しているところが決定的に違う。接近・参加・所属に恐怖があって人に近づくこと自体に拒否感が出る。ただし、大容量ワーキングメモリによって大抵は耐えられてしまうため実態が見逃されやすく、問題がないように見えてしまう。
小2の頃、母親に仕事で連れられた大型百貨店で仕事が終わるまで待っているように言われたが、待てずに泣き出して迷子扱いとなった。弟2人は泣かず自分だけが泣いていた。親に捨てられた感覚だった。
小5当時流行っていたアニメ「こどものおもちゃ」にコンドームなるものが登場。それが何かを知らなかった私はクラス中で「コンドームって何?」と聞きまくった。
それを見ていた担任がその日の道徳の授業を急遽、性教育に変更した。授業終了後、私は多数の男子から「お前のせいで(先生がいない)自習の時間が潰れただろ、ふざけんな」と責められて総スカンを喰らった。
小学校では行間体育でリズム縄跳びがあり、全学年共通で曲はドラゴンボールだったが、高学年はそれ以外で学年のリズム縄跳びがあった。楽曲はmasquerade(TRF)だった。
学校で覚えたちょっとカッコイイ曲くらいの認識だった私は、この曲を家族で行ったカラオケで入れたら母親に笑われたのである。意味がわからなかった。 それ以来このことはすっかり忘れていたが、自助グループでの回復を経てこの曲の歌詞の意味に大人の恋愛や性的ニュアンスがあることを知った。いやそりゃ小6男児がいきなりこれ歌ったら笑われるやろなぁと思ったが、当時の私には意味の分からない出来事として記憶の奥底に沈んでいた。
これらの出来事は子供の私には不可解なものであった。それぞれの出来事には
| デパート迷子事件 | 母親が戻らない → 理由がわからない |
| こどちゃ事件 | 何が起きているのかわからない → 説明されない |
| masquerade事件 | 歌う → 笑われる → 理由がわからない |
といった、相手が何も説明してくれなかった経験が相次いだ。これらは相手に悪意があるわけではないが、神経系は
という体験が蓄積された。すなわち、私の知らない"何か"のルールがあり、それが自分にだけ共有されなかったことが経験として擦り込まれたと思われる。
女子からのいじめは、この頃にはモーゼが海を割るように露骨なまでのヘイトを受けていた。
家庭科の調理実習では女子の間で「エタイに食品を触らせるな」とお触れが回って徹底され、男子は女子の総意を汲み取って我関せずの空気を突き通し、班の中で孤立させられる形で授業への参加を拒絶された。このいじめに担任が気づくことはなかった。同様に、食べ物に関することは私が触れることを許さない空気がクラスで罷り通っていた。そのくせ給食の時間は体の良い残飯処理班にさせられていた。私が感情から逃れる生存戦略として食べることが確立していたため、断る発想は最初からなかった。
父親からの教育虐待の最たるものは娯楽を封じることにあり、その主たるものが自分がゲームを独占することにより子供にゲームをやらせない圧力だった。まず自分がやりたいゲームをやり、そのおこぼれを弟たちがあずかり、大抵自分は最後だった。そして父親がゲームをやり終えればファミコンとスーファミのACアダプタ(電源)を隠されて兄弟がゲームできないようにし、ゲームボーイは家から持ち出すなどゲーム管理が悪い方向に徹底していた。我々兄弟が電源を探し当てれば隠し場所を変え、それに対抗すべく弟たちは自前で電源を買ったりした。しかし私は上の弟には何度も金をパクられていた。高校生くらいまでそれは続いた。それもあって小学生時代から金欠だったので電源が買えず、弟たちがいない隙を見て勝手にゲーム機(主にGBポケット)を借りて自分のゲームをやったりしていた。弟には何度も怒られた。家でゲームができなければゲーム屋の体験コーナーに刺さっているカセットを抜いて自分のカセットを持ち込んでゲームしていた。店員にバレて怒られた。
別の小学校から来た話したこともない別のクラスの女子からも露骨に嫌われていた。何も知らないぶん、同じ小学校より別の小学校出身の女子のほうが露骨に私をヘイトしていた。
給食王ポジションは中学でも続いていた。このため、中2の頃に女子から「同じ給食費を払ってるのが馬鹿らしい」と言われたことがある。
ここでの出来事は、排除と所属拒否である。第二層は理由が説明されないという点では空気に近い扱いだったが、ここでは理由が説明されるかどうかはともかく、実際に存在を拒絶された現実が確かにある。
学校では班やクラスの所属を、家庭ではゲームの資格を奪われていた。これは悪意があるにせよないにせよ明らかな拒絶だった。
小学校6年間を通して、普段はゴミクズ汚物扱いの私が唯一頼られる瞬間があり、それは遠足の時だった。私が鉄オタであることによるが、所詮はパシリ扱いであることを私自身も認識しており、しかしそれでも私は必要とされたかったため嬉々として対応していた。遠足が終われば女子からはいつものゴミクズ汚物扱いに戻った。
また、女子数人から呼び出されてゴキブリ退治要員として女子トイレに入らされたことがある。嫌な気持ちになったが必要とされたい欲求に抗うことはできなかった。
これらの出来事は、一般的なACの「人間扱いされなかった」と共通している部分はあるが、私の場合は機能だけ必要とされて存在自体は拒絶されたままである点が決定的に違う。ACが人間扱いされない場合でも大抵は相手からの依存関係があることが多く、そうでなかった場合でも所属(「存在」という条件が満たされている)がある。
「人間扱いされなかった」感覚は一般ACとエタイさんで以下のような違いがある。
| 当事者 | 所属 | 役割 |
| 一般AC | あり | 存在を条件に支配されて利用される |
| エタイさん: 女子トイレゴキブリ退治 | なし | 機能だけ利用される (支配関係がない) |
| エタイさん: 遠足前のパシリ | なし | 歩く時刻表として機能だけ利用される (支配関係がない) |
生育歴で述べているように、エタイさんの原体験には支配 - 被支配の関係がないので、所属は拒絶されたままになっている。そして都合のいいときだけ、しかも不特定多数から利用された経験は、所属意識の希薄さに繋がっていった。