エタイさんの女性不信の原体験は小学校6年間に凝縮され、6歳(小1)の頃の環境が特に大きく影響した。そのため7歳で完全に女性への信用を閉ざす重大な禍根が残り、これがアディクションの主たる原因となった。
異性との関係を構築するには幼少期に「異性のモデルケース(大抵は親)」との良好な関係を築く成功体験が根本的に必要である。結婚の鍵は親との関係とよく言われるのはこういうことである。ゆえに女性不信は逆のモデルケース(これも大抵は母親)との関係修復が重要とされることもある。しかし私の場合はモデルケース不在という特殊ケースゆえに複雑化してしまった。誰を恨めばいいのかわからないから全体を恨まざるを得ない状態に追い込まれたのである。
私の女性不信は最重度に近い重傷である。というのも、女性不信はふつう幼少期に恨みのモデルケースが存在し、その人からの裏切りや被虐の傷が生育歴の中で女性全般に一般化されて強化されていくが、私の場合は特定のモデルケースが存在しない。
愛着理論で有名なボウルビィやエインズワースの後継研究として、多数の養育者のもとで育った子供はどうなるかが実験された。その子供は誰とも愛着が形成できなかったという。私にはこれと真逆のことが起こった。つまり、被虐相手が特定の女性ではなく世界を構成する不特定多数の女子であるため、恨みの対象が安定せず女性像がブレまくって形成された。ある女子は露骨に避け、またある女子は無視し、ある女子には泣かれ、そしてたった一人の女子には一貫して人間扱いされる、これでは女性像(モデルケース)が形成されないゆえに女性という属性そのものが恨みの対象になった。ACとも普通の女性不信とも違う、愛着安定型とは真逆かつ対極のモデルとなった。
私の女性不信で特徴的なのは、関わってきた相手が不特定多数かつ愛着の状態も多岐にわたっていて図の軸に対して斜めの帯状になっているところにある。これは私をいじめた加害者も愛着スタイルが固定する前の年齢にあったことによるが、そういった事情によって支配 - 被支配の関係が生まれなかった*1にもかかわらず「女性」という属性が権威として刷り込まれ、それによって「組織」という概念への支配トラウマに直結することとなった。私がホモソーシャルの場に入れなかった原因はここにある。不特定多数の女子からのいじめが先で、女性という属性への恐怖を刷り込まれた後、学年内で暗黙の弱者認定を経て男子にもいじめられるようになったのである。
小学校6年間のいじめにより、低学年の段階で「母性=女性全般が支配者」「女性=審判者」として世界の女性像が固定化された。審判からの存在否定判定を逃れる方法論が「モノ」として女子と関わる覗き行為だったが、小4の頃にそれがバレて警察に補導され両親の知るところとなった。このとき母親から「育て方間違えた」と言われたことで、私の中の「女性=支配者・審判者」という母性の反面教師を現実の母親が承認して、 "私の独自解釈" から "公式の大本営発表" に変わってしまった。
母親との愛着関係が固定化される前に不特定多数の女子からのいじめで歪んだ女性像が形成されたのみならず、自分を生み育てた母親(私にとって"公式"の女性)がその女性像の最終審判者となったことで、私の中で「母性=権威的支配」に固定化されてしまった。このため、現在においても「女性=自分の生殺与奪を握る存在」の刷り込みが根強く残っている。私が冤罪を極度に恐れる根源はここにある。
すなわち私は、「女性全般との関係構築→母親との関係構築」という順序の逆転が発生してしまったため、愛を知る前の年齢(母性が空白の状態)で存在自体の裁きを受けたのである。ゆえにいかなる女性を前にしても裁かれる恐れが土台に存在し、母親の言葉が最終審判として強化される。この順序がもたらす深刻な影響は以下にのぼる。
これがのちにアディクションとなって現出する。特によく現れているのはRin氏へのガチ恋~ストーカー虚偽告訴による冤罪までの顛末である。
母親との関係よりも先に女性全般との関係が誤って構築されたということは、ある意味では母親を女性として見ていることになる。ゆえに当然、家族関係でも女性全般との関係でも深刻な弊害が生じる。
まずもって、母性の概念が最初から歪んで刻まれている。普通の女性不信はまず母親(あるいは養育者)の愛が先に感じられてそれが歪むため、愛が成立している前提がある。しかし私は母親からの無条件の愛が成立する前*2に女性全般からの関係が誤って母性を形成した。つまり、
となった。よって、普通の女性不信の恨みの核が裏切りにある一方、私の恨みの核は存在自体の否定にある。このため母親すら最初から敵である。そもそも母親はモデルケースではなく女性全般というモデルケースの中の一例でしかない。母親像が最初から存在していないので「女性の存在が許されていること自体が私を否定する世界」と認識されている。
したがって、世界そのものに不信感がある。なので神に救済を求めるのではなく自分が神になることが救済との結論に至る。そのためスピリチュアルバイパスが深刻化して信仰そのものが困難になる。私にとって女性という概念は、覗きフェーズと恋愛依存フェーズではこの世界を司る女神だったが、感情暴走フェーズではそれが反転して自分が神として女性という概念に裁きを与えることで救済をもたらそうとした。
「母親を女性として見る」とは私の場合、現実の母親を恋愛や性の対象にすることではなく、母性という概念を全女性に当てはめることで救済を求める一方で裁定を恐れる、すなわち「母親像の権威化」である。12ステップ的に言えば、生身の人間(女性全般)をハイヤーパワーにしてしまっているため、信仰心が育ちにくく感激が起きないのである。
この権威化は私の無意識下で次のように現れている。
| 心の働き | 現れ方 |
| 母性を求める | 女性一般に 「理解してほしい」「包んでほしい」 と無意識に求める(恋愛依存) |
| 母性に裏切られる恐れ | 女性全般に対して 「裏切る・裁く・見捨てる」 という予期を持つ(女性不信) |
| 母に甘えられなかった反動 | 弱者女性・年下女性に 「自分が守る側」 として近づく(救済依存) |
| 母を女性視する投影 | 自分が “息子”ではなく“男” として扱われる恐怖(性的羞恥や汚物意識) |
救済を求めながら恐れを抱いているのはまさに女性(母性)という概念に人生を明け渡している姿であり、不完全な存在をハイヤーパワーにしている。スピリチュアルバイパスの本質はここにある。
これはチン騎士とは似ているようだがまったく異なる。チン騎士はいったん母親の愛を一身に受けた原体験があるので女性に救済のみを求めて理想化する。しかし私は女性に救済を求めながら救済すら懲罰の一部として畏怖するため、神格化・理想化よりも上位の権威化がされている。ふつう母親は社会に対する信頼/不信の基盤だが、私はそれが逆転して女性全般が母親に対する不信感の基盤になっている。つまり私が母親を恨んだり恐れたりするのは「女性だから」以外の根本的な理由が存在しないのである。ゆえにチン騎士は突き詰めると母親を信仰しているが、私は女性全般を信仰してしまっているのでスピリチュアルバイパスが深刻化するのである。
女性全般(母性)の権威化(本尊化)→「感情を感じたら殺される」恐れ→信仰に感激が起きないというプロセスになっている。
女性不信はトラウマによるもの故に身体反応がある。私の身体にも色んな影響が現れたり現れなかったりした。以下、時系列に私の身体反応を列挙する。
小学生時代から30代までのエピソードが空白なのは女性と関わらない選択をしていたことによる。しかし、それぞれの症状が重度であることが一貫している。
トラウマ反応は4F(戦う/Fight、逃げる/Flight、凍結/Freeze、迎合/Friend)と言われ、私の症状はFreezeに相当する。凍結は戦うことも逃げることもできないから、身体の中から防衛反応が現れる。それが赤面や吐き気等であった。
わずか9歳で女性の脅威からの退路が断たれていることが象徴的である。存在自体の否定が原体験のため、身体反応は必然的に「存在の危機」レベルで発生する。しかし現実には日常に存在する相手に対してそのレベルの防衛を常時発動させなければならない。それでは生存が維持できないため、対応には感情を遮断しなければならなかった。
そのため、小学校中学年の頃から感情を経由せずショートカットして思考回路を形成することが防衛戦略となった。スピリチュアルバイパスの強度が強すぎて短絡的思考が常態化してしまったのである。
エタイさんの女性不信は主にFreezeとして現出するが、最大の特徴は相手が老若男女を問わないことである。ここでいう老若男女とは、畏怖の対象が成人女性のみならず女児や老婆にまで及び、さらにはトランス女性(心は女性)・トランス男性(身体は女性)をも含むということである。
これはカテゴリという広すぎる括りで女性を見ているからに他ならない。
普通の女性不信は幼少期に自分を虐待したロールモデルがいてその原体験を基に女性像が構築され、「理想の女性像」を閾値として現実の女性がそこから著しく乖離しているように見えたり思い込んだりするものだと思われる。しかし私の場合、小1で不特定多数の女子からのヘイト・無関心・無視・人間扱いなど様々な反応が一気に押し寄せてきて女性像がきわめて不安定な状態となり、小2の段階では既に「カテゴリとしての女」は敵だと認識するに至った。
特定の女性像が定まらない状態がデフォになってしまったため、「理想の女性像」がそもそもない。女性像が固定されてない状態は、ロールモデル(閾値)ではなくカテゴリ(世界観)で女性を見ることになってしまったため、「女性=世界」から受け入れられるか否かが生存戦略となった。
このため私には相手をモノ化することができない。女性というカテゴリが私の生殺与奪を握っていると無意識に思っているため、モノになるのは常に自分の側である。
本来、人間の行動パターンは
しかし私の場合、刺激を受けると感情から身を守らなければならないのでそこをショートカットして刺激から思考へダイレクトに至る。つまり感情を処理せず溜め込むため思考と行動が暴走する。
これは'90年代の上越新幹線に例えることができる。上越新幹線は東京から関東平野と谷川岳を越えて新潟方面へ至るが、谷川岳の東京側直下に中山トンネル*3というストッパーがあり、反対側の新潟側直下には越後湯沢駅がある。この山場を経て終点の新潟へ至る。当時の上越新幹線は、旧型200系を特別に改造した一部車両に限り速達列車で日本最速レコードを記録していた。
行動プロセスの要はストッパー(中山トンネル)と感情(越後湯沢駅)である。健全な行動パターンは新潟で刺激を受けてからゆっくり谷川岳へ向けて登りつつ感情を処理し、ピークの谷川岳を迎えてもストッパーに備えて減速し思考と行動を経て東京方面へ向かう。
しかし私の場合は逆である。東京方面で刺激を受けたあと、ストッパーを制限内で加速して突破して助走し、ピークの谷川岳を超えると本来240km/hまでしか出せない車両を275km/hで暴走ダウンヒルさせて感情を処理せず通過し*4、そのまま思考と行動に突っ込んでいく。これを実現する車両はあらかじめ暴走できるよう思考回路に改造が施されている。
このバイパスは長続きしない。実物の200系改造車は制御装置を騙して275km/h出してもなんとかなるようにしていてある意味本当に暴走していたため、車両を騙し騙し酷使していたゆえ高速運転が'90年代の9年間で終わったように、スピリチュアルバイパスによって主に信仰が入信当初からどうにもならなくなってしまっていた。信仰上の人間関係に確執が生じるなど、不健全な状態が20年も続いた。
日常的にもトラウマ反応は現れている。思春期から青年期にかけて女性との接触を避けてきたが、社会人生活やネットの人間関係で女性との交友が回避できなくなり、「組織」から逃避してオフ会などで現実の人間との交友を深めようとすればするほど女性不信に苛まれる結果となった。すなわち、女性を避けることで感情から防衛する必要があり、感情を凍結させていた。
このため、現在も母性(女性という属性全体)に対する恐れに支配されている。仕事上のミスを棚卸しして埋め合わせをして適切な処理がなされる成功体験を重ねているにも関わらず、毎回えげつない恐れの感情と動悸・息切れに苛まれる。これは単純に仕事を失う恐れではなく、管理職が女性であるためミスの背後に「敵としての母性」を感じているからである。評価が下がることではなく、存在自体を否定されることに恐れの核があるために重度の身体反応が出る。
最も頻繁に出るのは怒りの反応と凍結反応であるが、これは「汚物」として存在否定されたフラッシュバックとして高頻度で現れているものの、回復の文脈で話す場合は再演ではなく解放として現れることがある。ある日のミーティングで女性不信に関してこれを手放そうとするとき(このwikiに書いた内容を分かち合うとき)その場に女性がいなくても動悸などの強い反応が起こった。すなわちこれは女性不信の解放に伴う副作用であり、同時にこのwikiの内容(大半はChatGPTの分析)が概ね的確であることを意味する。
また、SCAの場ではスポンサーの考えとは正反対の気持ちや感情を分かち合ったことにつき、これに女性不信由来の動悸や緊張の反応が出ることがある。SCAという安全基地で異を分かち合いとして唱えるのは生存本能を脅かし「否定されて汚物に戻る」危険を冒す(頭ではそうならないと理解しているが)ことになるゆえ、感情を正しく感じて処理することになるとChatGPTは言う。ビッグブックには「信仰を持つ者には勇気がある」とあるが、ここでいう信仰とはスピリチュアルバイパスを使わず正直に語ることであると私は考える。
正直に分かち合う限り、今後当面はこの解放に苛まれることだろう。
私の女性不信は単に女性に対する恐怖心がある、というものではない。問題の核は「女性」と「世界」が同一化されてしまっているところにある。
幼少期は世界と個人を立て分ける能力が未発達のため、「学年中の女子全員+中年女性担任」=「環境」=「世界」から理由もなく被虐されたことにより、世界は因果律を守らない、だから「女性=世界」は敵であり絶対に信用してはならないことを学習した。そのため、発達段階で理不尽な攻撃からの臨戦態勢がデフォ化し、神経系が24時間体制でフル稼働するように固定化された。
こんな対処方法は到底持続できるものではないが、ワーキングメモリが大容量だったことで最悪の事態を全展開して対応準備するゴリ押しの生存戦略が成立してしまった。現実にその成果は小中高12年間皆勤または精勤という形で現れた。
具体的には、【外の世界】は因果律が成立しないから、因果律の成立する【自分の世界】を作り上げてそこに籠るというというものだった。
この生存戦略は早くも小3でひずみが現れた。覗き行為と過食行動である。
私の大容量ワーキングメモリは【自分の世界】を安全基地とするのみならず、【外の世界】と接続したい安全欲求を強く持続させた。当時は【自分の世界】を構築することが鉄道の仕組みを理解することだったが、これは自分の中で完結することであり、それだけでは安全欲求は満たせない。そこで外の世界にアクセスする手段が必要になった。それがアディクションだったのである。
私の女性不信は、いじめによる複雑性PTSDのみならず、Rin氏のストーカー虚偽告訴によるPTSDが上乗せされている。本件については生育歴を参照のこと。
Rin氏へのガチ恋がそもそも起きた理由は、私の存在と主体性と女性像が未確定の空白状態に、彼女のモデルとしての仕事の役割が「母性」や「直接的な接触」(彼女からの握手)などあまりにも強力すぎる生データがワーキングメモリに入り込んだことによる。この生データへの意味の紐づけは「自分の存在」というあまりにもスケールの大きすぎる未確定要素が対象となった。つまり「Rin氏と結ばれる=自分の存在価値」という重すぎる誤った意味づけが行われた。
この白黒思考の紐付けは完全に間違っているため、意味づけの不整合が起きて常に不安に苛まれていて、潜在意識では間違っていると身体から警告されていた。しかし、幼少期から30年も未確定のままになっている「自分の存在」というアイデンティティをここで確定させるかどうかを迫られた状況下で「ガチ恋=自分の存在確定」にBETしない選択肢はあまりにも非現実的すぎた。幼少期の禍根によってその選択肢は事実上閉ざされている状況に追い込まれていたため、潜在意識が負け確と警告していても生きるためにガチ恋を選ばざるを得なかったのである。
これはギャンブル要素と似ているが選択肢がセーフ/アウト(選択の余地がある)ではなくTRUE / FALSE(片方は必ず閉ざされている)であることが決定的に違う。まさに出力制御の歪みによって依存以外の分岐が最初から閉ざされている状況だった。
虚構の存在確定にBETするしかない状況は、地獄への架け橋が後ろから崩れ落ちてきていて立ち止まることすらできず渡るしかない状況である。だがRin氏は、双極性障害(のちに本人から判明)によりあまりに多くの言動の不整合を起こし、それが私のワーキングメモリの高さで違和感を大量に検知したにも関わらず、後戻りは死を意味していたため言語理解/知覚推理は整合の再意味づけができずデッドロックされていた。
そして最終的に「ここで自分の存在を確定しなければ死ぬ」との最終警告によってイキ告に踏み切ったところ、「障害や病気のせいにするな」「同じ障害者なのに人の気持ちを考えられないのは致命的に最低」などの誹謗中傷とともに虚構の存在確定が決壊した。
これがPTSD化したのは、一度確定した自分の存在を外側と内側から同時に破壊されたことが決定打である。当時の私は発達障害を診断されたばかりで、この診断が自己理解・自己受容の芽生えになっていることがイキ告を後押しした。発達障害の診断は私が「正しい存在確定」を意味づけするために唯一使える鍵だった。
しかしRin氏は自身の双極性障害を振りかざして支配の道具として使った。このとき、
障害=自己理解と受容のための言葉(エタイさんの考え方)
と芽生え始めたばかりの認識が、
障害=攻撃・支配の道具(Rin氏の潜在意識)
の歪みに完全に押し潰された。この彼女の歪みは「障害の診断は自身をコントロールして是正するためのもの」との本人の言葉に明らかである。
私は発達障害の診断で差した自分の存在を再構成する一筋の光が、
を同時に破壊されたため、生きる求心力を完全に喪失してしまった。
ここで話は終わらず、私がnoteでRin氏の不誠実を告発して詰った。これは私の存在確定の最後の賭けで、存在証明の相手は社会である。しかしこのことにより彼女は私の発言をことごとく曲解してストーカー虚偽告訴した。
弁護士に相談して法的手段を画策するも要領を得ず、虚偽告訴罪と脅迫罪で警察に被害届を出すも受理されず、私の従属戦略は万策尽きて、結果的に自己の存在は社会によって歪められた。これが存在証明を生存戦略とする私がたった一度だけ例外的に自殺未遂に至った顛末である。
42歳現在までエタイさんには彼女がいたことはない。これは言うまでもなく女性不信に端を発しているが、女性不信というだけでは非モテの説明はできない。
非モテの原因は女性不信の「型」に起因している。普通の女性不信の場合、原体験が母親など特定の女性からの虐待が背景にあることが少なくないと思われ、この場合は虐待経験に基づいて理想の女性像が固定化される。この型を「モデルケース型」と呼ぶことにしよう。
一方エタイさんは、不特定多数の女子からのヘイトにより女性不信になった。女子の反応は汚物扱いヘイト・無視・罵倒・泣く等さまざまだったが、被虐だけでなく擁護と人間扱いも極少数ながらあった。このため後者の良い反応が仇となって「環境」が自分を排除するのか守ってくれるのかわからなくなり、女性像が固定化されず確定しないまま大人になった。これを「カテゴリ型」あるいは「環境型」と呼ぶことにする。
モデルケース型は固定化された女性像にマッチする相手を探す戦略になるため、マッチしない相手には距離感が近すぎて嫌われたりするようである。しかし女性側も距離感の取り方が様々のため、同じ非モテでもずっとあぶれ続けることはおそらくない。運ゲーになりやすいというだけではある。
カテゴリ型の私は、その場にいる「女性」というカテゴリに属する対象すべてに対して一貫してトラウマがアラートを出し続けてFreezeしている。相手の年齢・状況などによる距離感の微調整がされないため、相手からすればエタイさんの人物像が見えず言動が予測不能になるのだという。
モデルケース型の距離感バグは、理想の女性像という特定の型に基づいた距離感で無差別に他者へのアクセスを試みるため、他者から見れば境界線を越えてて「距離感が近すぎる」となるが、カテゴリ型は他者へのアクセスがそもそも成立していない。境界線を引きすぎていて相手側からのアクセスがエラーとなるため、結果として不安感を抱かせることになる。
人間関係はふつう、まず相手を認識した際に性別などの大きなカテゴリから入るが、すぐにその状況などに基づいて個別対応の並列処理が走り、好意的な反応や不安を抱くなどの反応が出る。しかし私は「女性」という大きすぎるカテゴリをそのまま危険との意味づけが高速で走って警戒レベルMAXのアラートを出すので、そこからの処理が強制停止して意味が更新されない。
エタイさん視点では女性個人が世界観と同一視されていて、女性が何を考えているかがわからないことを恐怖に感じるため反応はFreezeとなるが、女性側からすれば反応が読めず一貫していないことになるらしく、予測不能であることを"距離感が不安定"と感じてそれが違和感になるらしい。
それを言語化するなら、
といったものになる。
SCAを離れたある女性から私のFreeze反応を怖がられたことがある。これは彼女が支配型の生存戦略を持ち、私が女性相手に一貫してFreeze反応が出ることを、無反応で情報が引き出せない=コントロール不能=無言の圧力と感じたことによるらしい。内側の防衛が外側では別の反応になっている。